刈谷市美術館「蕗谷虹児展」 [美術]
5月29日(日) 刈谷市美術館へ蕗谷虹児展を見に行きました。
カフェ・ドーリー・ジーのモーニングの時に、友人が
「刈谷市美術館へ蕗谷虹児展を見に行ったけど、すごく良かった」って、
割引券付きのチラシをくれたんです。
蕗谷虹児、私はもちろん、彼が華々しく活躍していた大正時代には生まれてませんが、
その、ちょっと退廃的な危険な香りのする挿絵は、私のツボなんですよね。
いわさきちひろの絵は、うまいなー、優しい気持ちになるなってカンジなんですが、
蕗谷虹児の絵は見ていてドキドキするというか、
一人こっそり絵の世界に浸りたいというカンジの絵。
少女マンガの源流ではないかと私は思うのですが。
あ、図録の解説に、「『虹児を参考にした』と明言している竹宮恵子」とありました。
展覧会最終日の5月29日(日)、高校時代の恩師のグループ展が中区栄の市民ギャラリーで
あったので、そちらを見に行ってから、金山に出て、JR東海道線で刈谷駅へ。
実は私、刈谷とか知立、安城、岡崎あたりの地理、よくわからなかったんですよね。
JRの快速で、金山―刈谷は3駅。15分で着きます。意外と近かったんだって。
そして刈谷市美術館も歩いて10分程度なので、わりと交通の便はいいんですが、
当日は、台風の影響で風雨が強くて、安物のビニール傘がすぐひっくり返ってしまいました。
まだ行きは雨がそれほど降ってなかったので助かったのですが。
刈谷市美術館
緑の木々に囲まれた二階建ての建物。
この白いタイル貼り、ちょっと岐阜県美術館に似てるなあって。
奥に見えるのは図書館(岐阜県美術館も図書館の隣にあって、そんなとこも似てる)
ヤマボウシの花(のように見えるのは総包片ですが)がきれいです。
隣に茶室・佐喜知庵があります。
企画展に合わせた特別の和菓子でお抹茶がいただけるそうで、
蕗谷虹児展開催中は、蝶をモチーフにした「胡蝶の夢」
13:00~15:00で、頂いてこようかなぁとも思ったのですが、まず
展覧会を見て‥‥と。(頂いてなくてよかったです。
この時2時くらいだったんですが、見終わったら閉館時間の5時になっちゃいましたから)
友人がくれた割引券で当日一般800円が、100円引きの700円になりました。
(名古屋あたりの展覧会と比べると安いですね。展示内容も充実していましたし)
蕗谷虹児の生涯については全く知らなかったんですが、ドラマチックです。
まず出生から、19歳の父と15歳の母の駆け落ち先で生まれたとか(1898年)
母は湯屋の看板娘で、評判の器量よしだったそう。
その母は虹児(本名一男)13歳の時に、28歳の若さで死去。
虹児は幼い弟2人の面倒を見ながら、丁稚奉公などをして懸命に働いたとのこと。
やがて画才が認められ、同郷の日本画家・尾竹竹坡の内弟子となって上京(15歳)
17歳の時に新潟に戻り、生活の支えのために映画館で看板絵などを描く。
翌年再び上京するが、帰郷中の人妻との恋愛関係が発覚し、父親が渡っていた
樺太(サハリン)に逃れ、旅絵師として2年余の放浪生活を送る。
‥‥すごいですね。図録の写真を見てもすごくイケメンですしね。
展覧会では《十六歳習作》から展示してありましたが、上手い!
もう展覧会にも入選していたようですし。
21歳の時に竹久夢二の知遇を得て、『少女画報』に挿絵を描いてデビュー。
そして瞬く間に花形作家に。
挿絵だけでなく、詩も書いて、詩画集を立て続けに9冊出版しています。
代表作が、後に杉山長谷夫の作曲で童謡にもなった「花嫁人形」
この歌、私とても好きです。哀愁に満ちたメロディーもいいけど、
「金襴緞子(きんらんどんす)」「文金島田(ぶんきんしまだ)」
「花嫁御寮(はなよめごりょう)」‥‥華やかでいてなにか秘密めいたような、
そんな言葉にすごく惹かれて歌っていました。
装幀の仕事もしていますが、虹児のデザイン感覚、素敵です。
華麗な草花文様にも溜息が出ますが、
いかにも大正ロマンって雰囲気のレタリングまでやっているんですね。
戦後(1968年)、三島由紀夫が『岬にての物語』の限定豪華本を出版するにあたり
蕗谷虹児に装幀や挿絵を依頼したとのことですが、すごくよくわかります。
そんな人気挿絵画家だった蕗谷虹児ですが、本人は本格的なタブロー画家に
なりたかったようで、1925年、虹児27歳の時に芸術の都パリに旅立ちます。
パリで描いた《混血児とその父母》は、サロン・ドートンヌにも入選した作品で
力作ですね。パリでも絵が認められて、パリの雑誌社からも挿絵の依頼を受けたり、
初の個展を開催したりして、順調に活躍していくかに思えたのですが、
日本の留守宅が破産状態になっていて、1929年、虹児は一時帰宅のつもりで
パリを離れるのですが、その後二度とパリの地を踏むことはできなかったそう。
虹児は、父や弟たちの借金返済のために、挿絵の仕事をしなければならなかった
ようで、本人は心ならずだったのかもしれませんが、おかげで素敵な挿絵が
たくさん描かれています。特にパリ帰りの頃の挿絵はモダンで魅力です。
やがて戦争に突入すると、虹児の絵は時勢に合わないということで、
制作を休止。
戦後は絵本の仕事が多くなっていくんですね。
ちょっとなつかしい雰囲気の絵、もしかしたら蕗谷虹児と知らずに
読んでいたかもしれません。
二階ロビーでは、蕗谷虹児が構成と原画を担当した
東映の短編アニメーション『夢見童子』(1958年)が放映されていました。
東映動画初のカラーアニメーションで、15分くらい。
セリフもナレーションもなく、今見ると実験的で芸術的です。
『白蛇伝』の準備的な作品として作ったようですね。
二階建ての刈谷市美術館のいくつもの部屋に約600点の作品が展示されていて、
やっと見終わった頃に「当館の閉館時間は5時です‥‥」というアナウンスがあり、
びっくりして時計を見ると、もう5時まであまり時間がなく、
あわてて分厚い図録を買いました。2,300円。
帰り、さらに風雨が強くなり、駅に着くまでにびしょぬれになりました。
図録は美術館の人が袋を二重にしてくれたので大丈夫でしたが重かった!
マンホールの絵 刈谷市の花のカキツバタがデザインされていました。
刈谷市美術館のウェブサイト
http://www.city.kariya.lg.jp/museum/index.html
蕗谷虹児の故郷、新潟県新発田市に「蕗谷虹児記念館」が建てられています。
http://www.fukiyakoji-museum.com/
「蕗谷虹児展」は、横浜のそごう美術館で
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/index.html
6月11日(土)~7月18日(月・祝)に開催されるそうです。
カフェ・ドーリー・ジーのモーニングの時に、友人が
「刈谷市美術館へ蕗谷虹児展を見に行ったけど、すごく良かった」って、
割引券付きのチラシをくれたんです。
蕗谷虹児、私はもちろん、彼が華々しく活躍していた大正時代には生まれてませんが、
その、ちょっと退廃的な危険な香りのする挿絵は、私のツボなんですよね。
いわさきちひろの絵は、うまいなー、優しい気持ちになるなってカンジなんですが、
蕗谷虹児の絵は見ていてドキドキするというか、
一人こっそり絵の世界に浸りたいというカンジの絵。
少女マンガの源流ではないかと私は思うのですが。
あ、図録の解説に、「『虹児を参考にした』と明言している竹宮恵子」とありました。
展覧会最終日の5月29日(日)、高校時代の恩師のグループ展が中区栄の市民ギャラリーで
あったので、そちらを見に行ってから、金山に出て、JR東海道線で刈谷駅へ。
実は私、刈谷とか知立、安城、岡崎あたりの地理、よくわからなかったんですよね。
JRの快速で、金山―刈谷は3駅。15分で着きます。意外と近かったんだって。
そして刈谷市美術館も歩いて10分程度なので、わりと交通の便はいいんですが、
当日は、台風の影響で風雨が強くて、安物のビニール傘がすぐひっくり返ってしまいました。
まだ行きは雨がそれほど降ってなかったので助かったのですが。
刈谷市美術館
緑の木々に囲まれた二階建ての建物。
この白いタイル貼り、ちょっと岐阜県美術館に似てるなあって。
奥に見えるのは図書館(岐阜県美術館も図書館の隣にあって、そんなとこも似てる)
ヤマボウシの花(のように見えるのは総包片ですが)がきれいです。
隣に茶室・佐喜知庵があります。
企画展に合わせた特別の和菓子でお抹茶がいただけるそうで、
蕗谷虹児展開催中は、蝶をモチーフにした「胡蝶の夢」
13:00~15:00で、頂いてこようかなぁとも思ったのですが、まず
展覧会を見て‥‥と。(頂いてなくてよかったです。
この時2時くらいだったんですが、見終わったら閉館時間の5時になっちゃいましたから)
友人がくれた割引券で当日一般800円が、100円引きの700円になりました。
(名古屋あたりの展覧会と比べると安いですね。展示内容も充実していましたし)
蕗谷虹児の生涯については全く知らなかったんですが、ドラマチックです。
まず出生から、19歳の父と15歳の母の駆け落ち先で生まれたとか(1898年)
母は湯屋の看板娘で、評判の器量よしだったそう。
その母は虹児(本名一男)13歳の時に、28歳の若さで死去。
虹児は幼い弟2人の面倒を見ながら、丁稚奉公などをして懸命に働いたとのこと。
やがて画才が認められ、同郷の日本画家・尾竹竹坡の内弟子となって上京(15歳)
17歳の時に新潟に戻り、生活の支えのために映画館で看板絵などを描く。
翌年再び上京するが、帰郷中の人妻との恋愛関係が発覚し、父親が渡っていた
樺太(サハリン)に逃れ、旅絵師として2年余の放浪生活を送る。
‥‥すごいですね。図録の写真を見てもすごくイケメンですしね。
展覧会では《十六歳習作》から展示してありましたが、上手い!
もう展覧会にも入選していたようですし。
21歳の時に竹久夢二の知遇を得て、『少女画報』に挿絵を描いてデビュー。
そして瞬く間に花形作家に。
挿絵だけでなく、詩も書いて、詩画集を立て続けに9冊出版しています。
代表作が、後に杉山長谷夫の作曲で童謡にもなった「花嫁人形」
この歌、私とても好きです。哀愁に満ちたメロディーもいいけど、
「金襴緞子(きんらんどんす)」「文金島田(ぶんきんしまだ)」
「花嫁御寮(はなよめごりょう)」‥‥華やかでいてなにか秘密めいたような、
そんな言葉にすごく惹かれて歌っていました。
装幀の仕事もしていますが、虹児のデザイン感覚、素敵です。
華麗な草花文様にも溜息が出ますが、
いかにも大正ロマンって雰囲気のレタリングまでやっているんですね。
戦後(1968年)、三島由紀夫が『岬にての物語』の限定豪華本を出版するにあたり
蕗谷虹児に装幀や挿絵を依頼したとのことですが、すごくよくわかります。
そんな人気挿絵画家だった蕗谷虹児ですが、本人は本格的なタブロー画家に
なりたかったようで、1925年、虹児27歳の時に芸術の都パリに旅立ちます。
パリで描いた《混血児とその父母》は、サロン・ドートンヌにも入選した作品で
力作ですね。パリでも絵が認められて、パリの雑誌社からも挿絵の依頼を受けたり、
初の個展を開催したりして、順調に活躍していくかに思えたのですが、
日本の留守宅が破産状態になっていて、1929年、虹児は一時帰宅のつもりで
パリを離れるのですが、その後二度とパリの地を踏むことはできなかったそう。
虹児は、父や弟たちの借金返済のために、挿絵の仕事をしなければならなかった
ようで、本人は心ならずだったのかもしれませんが、おかげで素敵な挿絵が
たくさん描かれています。特にパリ帰りの頃の挿絵はモダンで魅力です。
やがて戦争に突入すると、虹児の絵は時勢に合わないということで、
制作を休止。
戦後は絵本の仕事が多くなっていくんですね。
ちょっとなつかしい雰囲気の絵、もしかしたら蕗谷虹児と知らずに
読んでいたかもしれません。
二階ロビーでは、蕗谷虹児が構成と原画を担当した
東映の短編アニメーション『夢見童子』(1958年)が放映されていました。
東映動画初のカラーアニメーションで、15分くらい。
セリフもナレーションもなく、今見ると実験的で芸術的です。
『白蛇伝』の準備的な作品として作ったようですね。
二階建ての刈谷市美術館のいくつもの部屋に約600点の作品が展示されていて、
やっと見終わった頃に「当館の閉館時間は5時です‥‥」というアナウンスがあり、
びっくりして時計を見ると、もう5時まであまり時間がなく、
あわてて分厚い図録を買いました。2,300円。
帰り、さらに風雨が強くなり、駅に着くまでにびしょぬれになりました。
図録は美術館の人が袋を二重にしてくれたので大丈夫でしたが重かった!
マンホールの絵 刈谷市の花のカキツバタがデザインされていました。
刈谷市美術館のウェブサイト
http://www.city.kariya.lg.jp/museum/index.html
蕗谷虹児の故郷、新潟県新発田市に「蕗谷虹児記念館」が建てられています。
http://www.fukiyakoji-museum.com/
「蕗谷虹児展」は、横浜のそごう美術館で
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/index.html
6月11日(土)~7月18日(月・祝)に開催されるそうです。
へぇぇぇ、若くして亡くなったんですね。。
うんうん、イケメンです。。
♪金襴緞子の帯しめながら~♪・・・
あの有名な歌の作詞をされた人だったんですか??
すごい。。
あの歌、私も大好きです。。
なんか幸せな歌なのに、悲しい気分になりますよね。。
不思議な感覚の歌です。。
カキツバタは刈谷市の花??
そうなんだ~。。
綺麗。
by たまのママ (2011-06-10 18:38)
たまのママさん、コメントありがとうございます。蕗谷虹児、イケメンですよねー。若くして亡くなった美しい母への想いが作品に込められているとか。
「花嫁人形」華やかな歌詞なのに哀切な気分になる不思議な歌で、私も大好きです。
カキツバタ、マンホールの絵柄になってたので調べたら刈谷市の花でした。愛知県の花もカキツバタだそうです。
by しーちゃん (2011-06-26 14:31)