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岐阜県現代陶芸美術館「岩田色ガラスの世界展」 [美術]

7月31日(土)岐阜県現代陶芸美術館へ行きました。

「町田市立博物館所蔵
 岩田色ガラスの世界展―岩田藤七・久利・糸子―」
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銀色の特色も涼しげなチラシ

陶芸美術館でガラスの展覧会。私、陶器よりガラスの方が
好きなので、楽しみにしていました。
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でも岩田藤七・久利・糸子の名前も聞いたことがありませんでした。
ガレをはじめ、アール・ヌーヴォーのガラスは大好きなんですが、
そういえば日本のガラス作家ってあまり知らないなーと。

なので、この日、町田市立博物館学芸員・齋藤晴子氏の
講演会「日本のガラス工芸史における 岩田藤七、久利、糸子」
が、14:00~15:30に開催されるってことで、
この土曜日、珍しくパートのシフトで休みになってたので、
聴講の申し込みをしました。

講演会の前に展示を見ておきたかったので、
いつも(昼頃か昼過ぎにしか出かけないのに)より
早めに出かけて、12時少し過ぎ頃に着きました。

岐阜県美術館の後援会員証を呈示して入ります。
なんと、岩田ガラスの展示は撮影可!


まずは、日用品であったガラスを芸術の域にまで高めた
岩田藤七 1893(明治26)-1980(昭和55)

《鳥》1938(昭和13)年
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「用をなす」工芸作品を作ることにこだわった藤七にしては
珍しいオブジェ作品とのこと。

ガラスケースに自分が写り込んでしまってますが(^^;
この2点素敵!
左《花器「衣音」》1969(昭和44)年
右《花器「凛」》1953(昭和28)年
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「衣音」は、日本舞踊の足にまとわりつく着物の裾に
着想を得たものであろうと。

《瓶》1969(昭和44)年
真ん中の穴が造形的に面白い。
彫刻家ヘンリー・ムーアの作品からの影響があるのではないかと
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《花器》1970(昭和45)年
涼し気ー!
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《花器》1973(昭和48)年
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《水差し》1975(昭和50)年
金が使われていて豪華。ベネチア風の作品
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私この作品涼し気で気に入ったんですが、
タイトルも《花器「涼」》1976(昭和51)年
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ガラスの内側に細かな気泡が閉じ込められています。
ガラスが柔らかいうちに剣山などを押し付けて 多数のくぼみを作り、その上に溶けたガラスを一層被せて、 物理的に空気を封入する手法がとられている。」(図録より)
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ライトに反射してキラキラしてて素敵。

展示室 壁に藤七の花器を使って花を生けた写真も展示されていました。
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真ん中の展示台にあるのが、チラシ表面に使われている
《貝「波の響」》1976(昭和51)年
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藤七は貝をモティーフとした作品も多く作っているんですね。

資料として藤七の貝のコレクションや、
日本舞踊(?)のスケッチなどもあって興味深かったです。

どちらも《貝》というタイトルがついています。
制作年も同じ1962(昭和37)年
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とろんとした色ガラスがいいカンジ。

これもどちらも《貝》というタイトルの作品
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右が1975(昭和50)年、左が1974(昭和49)年

そして藤七のガラスの茶道具が並んでいます。
今では珍しくないガラスの茶道具ですが、
藤七が作り始めた昭和10年頃はなかなか受け入れられなかったそう。

《水指「仄々」》1965(昭和40)年
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仄かに透ける白いガラスは、炭酸カルシウムなどで
科学的に気泡を生じさせ、ガラス内に封じ込めた
泡ガラスで、印象的な水玉文様は、金属台の上に
型紙を使って水玉文様に色ガラスの粉を載せておき、
そこに膨らませたガラスを転がしてつけているのだそう。

《水指「湖水」》1973(昭和48)年
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何気に共蓋がついているけど、
(身と同じ材料で作られた蓋を共蓋(ともぶた)といい、
漆塗りの漆蓋など身と異なる材質の蓋は替え蓋という)
吹きガラスの作品で、本体の大きさとぴったり合う蓋を
作ることは至難の業なのだそう。

《水指》1975(昭和50)年
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金箔が華やか。藤七は東京美術学校在学中に金工や漆芸も
学んでいたので、金箔の扱いにも慣れていたそう。

《水指「あじさい」》1975(昭和50)年
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これとても気に入りました。素敵!!

《水指》1975(昭和50)年
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この緑は、透明な部分を透かして向こうがわにある色が
見えているんです。

《茶碗「渦」》1969(昭和44)年
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涼し気‥‥こんなお茶碗いいなー

《硝子額》制作年不明
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この作品とても心惹かれました。
細かな気泡が入って白く見えるガラスと
点描のような抽象模様が詩的で素敵!!



偉大な父を持った二代目の苦悩を味わう
岩田久利 1925(大正14)-1994(平成6)

父子は性格の上でも、藤七は豪放磊落で久利は几帳面と正反対であったが、 作品を制作する過程も大きく異なっていた。藤七は、事前に作品の設計図を描くことはほとんどなかったが、久利は綿密なデザイン画を描き、 計算された端正で優美な作品を制作した。(図録より)

《花器「H」》1954(昭和29)年
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このシャープな形が素敵。色もクリアなカンジでいいな。

《花器》1983(昭和58)年
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この端正な印象は、藤七と違うところですね。

《花器「阿」》1984(昭和59年)
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ユーモアのある形、面白~い!

緑色のガラスの色が素敵な3点が並んでいました。
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左から《花器》1982(昭和57)年《花器》1982(昭和57)年《花器》1984(昭和59)年

《花器》1989(平成元)年
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黒に赤の線が巻かれた端正な器

《硝子花入「赤と黒」》1986(昭和61)年
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タイトルどおり赤と黒色のシャープな形が魅力的。

《コンポート》1983年(昭和58)年
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チラシ裏面や図録の表紙にも使われている作品
シャープな形と、渦巻文様と散らされた金がとても素敵。

左《花器》1990(平成2)年 右《花器》1987(昭和62)年
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久利本人が「流影文」と名付けた文様が施された花器

《硝子額「夜の街」》1981(昭和56)年
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黒と赤のガラスを組み合わせた絵画のような平面作品
こういうガラスの平面作品を
「コロラート」って呼んでいるんですね。

久利は昭和55年、東京のホテルニューオータニの「鶴の間」に
設置する超大型「コロラート」作品に挑んでいて、この作品は
その頃に制作された小品のひとつとのこと。

《大鉢》1992(平成4)年
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透明なガラスに金と白の細かな文様がとても華やかな大鉢。
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岩田糸子 1922(大正11)-2008(平成20)

女学校時代に洋画家の有島生馬に師事したことはあったものの、 特に芸術家を志していたわけではなかった。たまたまガラス作家であった 岩田久利と結婚し、義父と夫が相次いで病に倒れた昭和33(1958)年に、 工場を続けていくためにやむおえずガラスの世界に入っていったのである。

岩田ガラスの工場では、
優秀な職人を多数抱えていたため、未経験の糸子が加入しても デザイナー兼ディレクターとしてすぐに活躍できたのだった。(図録より)

そんな糸子の作品は、奔放な雰囲気がありますね。
《飾皿》1991(平成3)年
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《花器「連山」》1999(平成11)年
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水墨画の山水の世界をガラスで表現しようとした意欲な作品

展覧会後の講演会で、この作品を作っている映像を見ることができました。
職人さんに細かく指示を出している糸子さん

《飾り玉「胡姫の首飾り》2005(平成17)年
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岩田工芸硝子が経営不振に陥り、平成12年に自社工場を閉鎖した後、 糸子はあまり大がかりな設備を必要としないバーナーワークを一から 勉強しなおし、トンボ玉の制作を開始した。

ってことで作られた作品。
はるばる極東の国々までやってきた中近東の舞姫たちの首飾りを イメージしました」とコメントされてます。

自社工場を閉鎖した後、バーナーワークを日本やアメリカで学んだのが、
2000(平成12)年、糸子さん78歳。そのバイタリティーすごいですね。



最後の展示室は、
「岐阜県美術館所蔵
 もう一人のパイオニア 各務鑛三 クリスタルガラスの世界」

岩田藤七と並ぶ、日本のガラス工芸の先駆者である
各務鑛三 1896(明治29)-1985(昭和60)

岐阜県土岐郡笠原村(現多治見市)出身ってこともあり、
岐阜県美術館に作品が所蔵されてるんですが、
こんなに持ってたの?! って、ちょっと驚きました。
(9点展示されていました) この展示室のみ撮影禁止

《飾り皿 銘 祈り》1929(昭和4)年
とか、岐阜県美術館の所蔵品展でよく展示されてて、
このシャープなカット文様、印象的です。

しかし、岩田藤七と各務鑛三の作品、全く正反対ですね。
柔らかな色ガラスの藤七に対して、各務鑛三の作品は
無色透明のクリスタルガラスの冷たい硬質な美しさ。


展示室を出たところで、久利の作品制作の様子が写された
映像が流れていました。

見ているうちに講演会の時間(14:00~)が近づいてきたので、
美術館内のプロジェクトルームへ。
(セラミックパークMINOのイベントホールから変更になったそう)


講演会「日本のガラス工芸史における 岩田藤七、久利、糸子」
講師は、町田市立博物館学芸員・齋藤晴子氏

今回の「岩田色ガラスの世界展」に展示されている
岩田藤七・久利・糸子の作品約100点は全て、
町田市立博物館所蔵

町田市立博物館は1973年に町田市郷土資料館として開館し、
郷土資料に加えて、国内外のガラスや陶磁器などのコレクションが
充実しているとのこと。現在、町田市立国際工芸美術館として
リニューアル移転が予定されていて、準備のため休館中とのこと。

まずは、町田市ってどこにあるかわかりますか? と、三択の地図が
私、昔、多摩美術大学で八王子に住んでいたので、
ちゃんと正解を当てることができました。
でも、町田市って東京都だったんだって(神奈川かと思ってた(^^;>
明治の初めは神奈川県だったそう。
横浜開港当時、横浜港から10里の区域は神奈川県とされたので。
それが水源の問題や、自由民権運動で東京都になったとか。

この展覧会が岐阜で開催されて、岩田藤七のライバルである
各務鑛三の作品も併せて展示されるのが嬉しいと。

そして、岩田家のルーツは岐阜だそう。
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(講演会の資料)

藤七の父・初代藤七が、京都に出て、呉服商をしていて、
その後、東京・日本橋にも店を構えて、
宮内庁御用達にもなっていた。藤七は幼名を東次郎といったが、
7歳の時に父親が亡くなり、宮内庁御用達の仕事のために
父の名を継いで藤七にしたそう。呉服商の仕事はその後、人に
譲ったとのこと。

私が藤七の経歴を聞いて へーっと思ったのは、
東京美術学校に12年在籍したってこと。
最初入学したのが金工科。金工科を6年で修了して西洋画科に再入学。
在学中に彫刻家・竹内久一の長女であった邦子と結婚しています。

大正11(1922)年に帝展に出品し、初入選を果たしたのは彫刻の作品でした。
(当時は帝展に工芸部門はまだなかった。
昭和2(1927)年に美術工芸部門である第四部が設置される)

藤七がガラス工芸をやるようになったのは、
師の岡田三郎助の「ガラスをやってみないか」って言葉や、
(岡田は工芸品やガラス器なども多く収集していたそう)
ドーム兄弟のガラス作品を見て、吹きガラスを知り、
こんなにやわらかいガラスがあるのかと感銘を受けたこと
(その頃ガラス製品というと切子ガラスだった)
そして、橘硝子製造所や岩城硝子製造所でガラス製造の技術を学ぶ
機会に恵まれたこと。特に、橘硝子製造所は廃業する時期だったので、
通常はガラスの色の調合などは企業秘密なのだけど、
その技術を教えてもらうことができたし、
藤七が昭和6(1931)年に岩田硝子製造所を設立した時は、
橘硝子にいた職人たちを引き継ぐことができたそう。

しかし当時はガラスというと日用品としか見られていなくて、
藤七はまず金工と組み合わせた作品を帝展に出品して
昭和3(1928)年、4(1929)年、5(1930)年と3年連続して特選をとります。

これが世間にガラス工芸も芸術になると認めさせることになります。

昭和10(1935)年からは、上野松坂屋をはじめとして全国の百貨店で
個展を開くようになります。当時ガラスは夏の商品というイメージ
だったけど、藤七は経営者として夏しか売れないのは困ると、
色ガラスを用いたのは、年中使ってもらえることが目的の一つだったと。


ここで日本のガラス工芸史を簡単に

弥生時代に渡来したガラス、
飛鳥時代に国内でガラスの製造が始まったが、
ビーズが中心であったと。

平安~室町時代は、日本のガラスの空白期

室町末期~安土桃山時代にヨーロッパからガラス器がもたらされ、
江戸時代には国内でガラス製造が開始されるが、
まだ薄いガラスしかできなかった。

19世紀になって、徐冷(なます)技術が知られて、
厚手のガラスができるようになり、
江戸切子や薩摩切子が誕生する。

明治になって西洋式ガラス製造法が伝わり、
鉛ガラスからソーダガラスへ
窓ガラスの量産もできるように。

大正~昭和初期には、色被せカットガラスが大流行
(あ、こんなコップ、昔、実家にもあった気がする)
日用の器として定着していったと。

こんな中で、藤七のガラス芸術は誕生したんですね。


さて、帝展や文展、戦後の日展にガラス作品を出品していた
藤七ですが、昭和31(1956)年の日展に、ガラスと金工で2作品を出品し、
金工作品で特選を取ります。息子の久利もガラス特品で特選受賞。
それが翌年の国会で糾弾されることになり、これによって
藤七は日展理事を退くことになります。

昭和33(1958)年は、岩田家にとって受難の年であったと
藤七が脳溢血で倒れ、胃がんの手術をすることになります。
久利は、工場が火事になり、その消火活動で肺を患い
長期入院をすることになります。


そこで、久利の妻である糸子が岩田工芸硝子株式会社の
経営とガラス製造を手掛けることになります。

糸子がデザインしたガラス卓上ランプが大ヒット商品となったそう。

黒色ガラスの製造を始めたのも糸子で、それまで
黒色のガラスは軟らかくて扱いにくいため、職人が嫌がって
作らなかったが、糸子は職人とぶつかるのも辞さず黒色ガラスの
作品を制作。その後は藤七や久利も黒色ガラスを使うようになったそう。

なんかダラダラと長く書いちゃいましたが、
岩田藤七・久利・糸子の生涯をはじめ、各務鑛三のこと、
日本のガラス史など、とても濃くて興味深く聞かせてもらいました。
(あくまで私が聞いてメモしたことと、図録で読んだことを
まとめまたものです。)


写真いっぱい撮らせてもらったし、ちょっと迷ったけど、
図録購入。2,000円(税込)
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そして、ガラスの歴史についても知りたくなって、
隣に並んでいた
「世界ガラス工芸史」美術出版社 も購入しました。2,750円(税込)
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「町田市立博物館所蔵
 岩田色ガラスの世界展―岩田藤七・久利・糸子―」展、

栃木県立美術館で、2021年4月17日(土)~6月27日(日)に
開催された後に

ここ岐阜県現代陶芸美術館で 7月10日(土)~8月29日(日)

その後、神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で、
9月21日(火)~11月14日(日) に巡回します。

岐阜県現代陶芸美術館: https://www.cpm-gifu.jp/museum/

岐阜県現代陶芸美術館があるセラミックパークMINOでは、
昨年開催予定で延期となっていた
「国際陶磁器フェスティバル美濃'21」が、
2021年9月17日(金)~2021年10月17日(日) に開催されます。
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写真ではわかりづらいですが、帰るこの時、すでに空が暗く、
時々稲光もあって、途中土砂降りの雨になりました。

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中日新聞に載ったコラム記事
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カラー版 世界ガラス工芸史

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