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築81年の家 [昔のこと]

前記事で、お年始に実家へ行き、お洒落にリフォームされた家のことを書きました。
色々なことを思い出したので、もう少し詳しく書きます。

この家が建ったのが、昭和3年(1928)だというのは、昭和54年(1979)の修理・改築の時に、
大屋根の梁に大きく「御大典記念 昭和三年」と書いてあるのを見つけたからです。
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(「記念」という漢字が「紀念」となってますが)
それまで祖母は、昭和になってすぐ建てたから、昭和2年に建った
(昭和元年は12月25日~12月31日の一週間だけなので) と言っていました。

「御大典」というのは、昭和3年11月に行われた、昭和天皇の即位式と大嘗祭のこと。
全国各地で盛大な記念行事が行われたとのこと。
しかし「国民が御大典の祝賀に酔ったのもつかの間、今度は4年の米国ウォール街 株式相場の大暴落に始まる世界恐慌が日本を襲った。当時、県下でも三大銀行のひとつと言われていた蘇原銀行が5年12月休業を発表し、休業は他の銀行にも及んだ。これは県下をおおった深刻な不況によるもので、養蚕に大きく依存してきた農村経済にも暗い影がさした。」
参考文献:『思い出のアルバム 各務原』昭和58年発行 郷土出版社

よく祖母が話してくれたのが、実家では、この家を建てるために、
銀行からお金を引き出していたので、銀行が倒産しても、打撃が少なくてすんだということでした。

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昔(私が小さかった頃、昭和30年代)の間取り
この地方の一般的な間取りです。母の実家も、祖母の実家も、同じ造りでした。
今の家と比べると大きいですが、これは、葬式や結婚式などのためと、
養蚕のためです。戦前の日本の一番の輸出産業が生糸でした。

蚕を育てる時期は、二階は全て、一階も、仏間と座敷、そして寝る場所以外は全て畳をあげ、
蚕の棚で占められていたそうです。ただ、父の代からは養蚕をやめたので、
私はそういった家の状態は知りません。

昭和54年(1979)、戦争や伊勢湾台風であちこち傷んでいた家の大修理・改築をしました。
戦争中は、川崎航空機工場から近いので、空襲で近くに砲弾が落ちたとか、
伊勢湾台風では大きな家がギシギシと揺れるのがとても怖かったとのこと。そしてその時の
雨漏りの跡は、天井やふすまにしっかり残っていました。
父は、建て替えた方が安くつくと言いながらも、これだけの家を壊すのはもったいないと、
床を全て取り外して、土台からやり直した大修理でした。
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昭和54年(1979)の大修理の時の写真

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改築前のお勝手の流し

その時に、トイレや風呂を家の中に造りましたが、それまでは、トイレも風呂も外にあり、
今考えると、寒い冬のトイレや風呂は、ずいぶん健康に悪かっただろうなぁと思います。

幼い私にとって、夜にトイレに行くのは怖かったですし、
風呂の脱衣所などは、屋根と戸があるとはいえ、雪の降るような夜でも
暖房も何もなく、外気温と同じです。そこで裸になって、熱い風呂に飛び込むのですから、
血圧が高い年寄りなどには危険なことだったでしょう。
当時、一番風呂は父が入ることになっていましたが、家長を敬ったということだけでなく、
一番風呂は、たいてい熱く、水を足してちょうどいい湯加減にしなくてはならないので、
年寄りや子どもには危険でもあったでしょう。
そして、我が家はそれまで風呂は薪で焚いていました。
(これは、その頃としても時代遅れではありましたが)
果樹の剪定をした薪がたくさんあるというのと、祖母という焚き手があったからです。
でも、毎日風呂に入る父を祖母は「ぜいたくだ」と言っていました。
(祖母は冬などは風呂に入るのは3・4日に一度くらいでした)
私がちょっと大きくなってから、よく祖母とけんかをしたのが、祖母が、風呂の手ぬぐいを
湯船で洗うこと。私は「汚い」と怒っていたのですが、祖母にとって、湯船の水は貴重であり、
流すのはもったいなかったのでしょう。今のようにお湯が出てくるわけではありませんからね。

私の小さい頃、二階には二組の若い夫婦が住んでいました。
しかし‥‥壁どころか、ふすま一枚の隔たりですからねぇ‥‥プライバシーも何もなかったでしょう。
トイレも風呂も、お勝手も共同‥‥二組とも子どもがありませんでした。
私は農作業で忙しい母にかわって、ずいぶんその夫婦にかわいがってもらったそうです。
その頃、公団住宅ができて、抽選会があったそうです。夫婦はその抽選会に私を連れて行って、
クジをひかせたら、ものすごい倍率の中、見事に当たったと、それも、最初に名前が呼ばれて、
びっくりしたと、後々までよく話してくれたものでした。(私は幼すぎて、全く記憶がないのですが)

こうやって書いてくると、昔の住宅事情に比べて、今はとても恵まれた贅沢な暮らしをしていると
思いますね。今、百年に一度の経済危機とか言ってますが、80年前の昭和大恐慌に比べれば、
まだまだと思って頑張らなくては。でも、昭和大恐慌への対策が、大陸へ進出、そして戦争という
道をたどったとのことですから、同じ轍を踏まないように、歴史にしっかり学びたいですね。
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miyuco

立派なお屋敷ですね。
私は昭和45年までわらぶき屋根の家に住んでました。
平屋でしたが一階の間取りは全く同じです。
「改築前のお勝手の流し」ウチもこんな感じでした^^
真っ暗な庭を横切っていく夜中のトイレは
本当に怖かった!
家を建てかえてもお風呂は薪で焚いていて(昭和60年頃まで)
もちろんそんな事をしている家はどこにもなかったです。
帰宅が遅くなり父が寝てしまっていると
ぬるいお風呂にはいる羽目になりよく風邪をひいてました。
いろいろなことを懐かしく思い出しました!

by miyuco (2009-01-14 15:26) 

影丸

懐かしいですね。
我が家も養蚕をしていたので全く同じでした。
ただし私の家はあまり裕福なほうではなかったので、かなりランクは低かったですが、・・・。
屋根は、瓦ではなく、トタン屋根でした。
壁に断熱材などなく、とにかく寒かったという記憶があります。
トイレ(というより厠)や台所も同じ、風呂も五右衛門風呂でした。

台風の翌日、茶の間から青空が見えたことは今でも鮮明に記憶しています。
伊勢湾台風は2歳の時なので、その後の室戸第2台風のときだと思います。

とても興味深い記事でした。

by 影丸 (2009-01-15 08:11) 

しーちゃん

miyuco さん、nice! & コメントありがとうございます。そうそう、夜中にトイレに行くのは怖かったですよねぇ。庭木はザワザワと揺れるし、トイレの電燈は暗いし。風呂も、洗髪のお湯もそんなに使えなかったですよねぇ、お湯は湯船にしかないんですから。今の生活を当たり前のようにしてますが、ちょっと昔のことを思えば、本当に贅沢になったなぁと。CO2排出量が増えるのも当然ですよね。昔の生活には戻れませんが、時々思い出すのもいいものだなと。
by しーちゃん (2009-01-18 02:57) 

しーちゃん

影丸さん、コメントありがとうございます。私は養蚕をしていた頃の家は知りませんが、父などから、蚕が桑を食む音が雨のように聞こえたという話を聞きました。そう、昔の家は寒かったですよね。ストーブもなくて、火鉢だけ。隙間風はスースー入るし‥‥皆着ぶくれていましたよね。伊勢湾台風は私が1歳の時なので、記憶はないですが、父母はその時の体験からか、私の小さい頃は、台風が来る前に、家を補強したり、ずいぶん準備をしていたように思います。
by しーちゃん (2009-01-18 02:58) 

トミー。(猫とマンガとゴルフ~の管理人)

 父親の実家 (練馬のだいこん農家でした) を思い出しました。写真や間取りなど、貴重な資料となりますね。よいものを見せていただきました。
by トミー。(猫とマンガとゴルフ~の管理人) (2009-02-09 10:27) 

しーちゃん

トミー。さん、コメントありがとうございます。練馬のだいこん農家‥‥もう今はそんな面影もないくらいに風景が変わってしまっているでしょうね。私の祖母は1900年(明治33年)生まれで、1994年(平成6年)に亡くなりました。明治・大正・昭和・平成と、激動の中を生きました。もっと昔の話などを色々聞いておけばよかったなぁと(子どもの頃はとにかくうるさく感じていたので)今頃懐かしく思い出します
by しーちゃん (2009-02-12 01:46) 

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