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名古屋市美術館「画家たちと戦争」展 [美術]

9月6日(日)、名古屋市美術館へ行き、
「画家たちと戦争」展を見ました。ちょうど、
山田 諭 名古屋市美術館学芸員による展覧会解説会もあったので、
そちらも聞くことができ、とてもよかったです。
ブログに感想を書こうとしていたのですが、なかなか進まずに、
とうとう展覧会が終わってしまいました。やっとアップします。

「画家たちと戦争:彼らはいかにして生きぬいたのか」
Japanese Painters under the World WarⅡ, How did they survive war?
gakatatitosensou.jpg

今年は戦後70年ということ、そして安保法案への議論と、
戦争について考えさせられることが多かったです。
そんな中、この展覧会のチラシを見て、

荒涼とした街の風景の中にすっくと立つ人物像。
とてもインパクトがありました。

これは是非行かなくてはと、楽しみにしていたところ、
たまたま金券ショップに、当日一般入場料1,300円、
前売券でも1,100円のところ、850円でチケット(招待券でした)が
出ていて、ラッキー!と買っちゃいました。

でも、お盆でパートが忙しかったり、会期が迫っている展覧会を
優先したりして、なかなか行けなかったんですよね。

9月6日(日)も、そろそろ行かないとなーと思いながら、
日曜美術館を見てゴロゴロしていたら、出勤したダンナから
「iPhone忘れた」と電話が。今はiPhoneがなくては仕事にならないので、
すぐに名古屋の会社まで持って行くことに。おかげで私にしては
早い時間(っても11時前ですが)に電車に乗りました。

ダンナにiPhoneを届けてから、名古屋市美術館へ。
本降りの雨のせいなのか、日曜日にしては空いていました。
昼時でしたが、展示を見てから食事しようと。
そして、最近の私にしては早い時間に来れたので、これなら
もう一つ美術館行けるかなって思ったんですが‥‥

私チェックしていなかったんですが、この日は
山田 諭 名古屋市美術館学芸員による展覧会解説会が
午後2時から2階の講堂であったんです。展覧会を見ている時に
アナウンスがあり、無料とのことで、せっかくだから聞いていこうと。

その解説会を聴けたのも、とてもラッキーでした。
この展覧会を企画・担当された学芸員の方の、詳しい説明で
それぞれの画家が戦争中、どのように生き抜いたのか
とてもよくわかりました。

展覧会チラシの内面は年表になっています。
gakatatitosensou-3.jpg

会場に入って最初が、北脇 昇(1901-1951)の展示。
北脇昇は後期展示(8月25日(火)~9月23日(水・祝))のみの作家です。
実は私は北脇昇という画家、知りませんでした。

正直、ふーん‥‥ってカンジ。鳥と猫で顔になっている絵とか、
グラフのような絵とか、何かの図式かって絵の隣には、
仏像を描いた《春に合掌す》1941年って絵があり、
穏やかな夕方の風景と見える《朱と紫》
子 曰
惡紫之
奪朱也

と、なにやら意味深な文字(論語だそうですね)や図が描かれています。
戦前に独自のシュルレアリスム絵画を確立した北脇昇だったけど、
戦争でシュルレアリスムはダメとなり、「図式絵画」や
東洋思想に傾倒した作品を制作したそう。

戦後の代表作《クォ・ヴァディス》1949年は、
ラテン語で「どこへ行くのか」という意味。

聖書の、聖ペトロが迫害から逃れるためにローマを離れ、
アッピア街道を歩いていたとき、夜明けの光のなかに現われた
キリストの姿を見て「クォ・ヴァディス」と尋ねると、
キリストは「そなたが私の民を見捨てるなら、
私はローマに行って、いま一度十字架にかかろう」と答えた。
聖ペトロは迷うことなく道を引き返して、
ローマで十字架に架けられて殉教した。という物語からの言葉。

荒野に佇む男はどこへ行くのか。右上の嵐の中か、
左の赤旗を掲げて行進する民衆の中か、
それとも足元の大きな蝸牛の殻に閉じこもるのか?
クォ・ヴァディス。
画家は民衆の中へ行きたいのかな?
でも、引きこもりっぽい私にとって、
足元の大きな殻が結構魅力的に思えちゃうんだけど。

香月泰男(1911-1974)
シベリア抑留の過酷な体験を描いた「シベリア」シリーズが有名ですね。
でも初期のゴッホ風の明るい《風景》1931年頃 は意外でした。
教職の傍ら学校の小屋で飼われていたウサギを描いた《兎》1939年
1942年、31歳で応召され満州国へ。丙種合格で後備兵としての駐屯で、
絵の具を持って行き、麻袋に描いて戦時特別文展に出品したのが
《ホロンパイル》1944年 セルリアンブルーの色調が陰鬱な雰囲気。
香月の戦争中の絵はセルリアンブルーが主調色だそう。
1945年の終戦後、ソ連軍にシベリア抑留され、2年間の強制労働の後
1947年に帰国。しかしすぐにシベリア抑留の過酷な体験を絵に
できたわけではなく、明るい色調で描かれた《風》1948年などを経て、
十年経ってからやっとだったそう。
軍隊毛布に包まれた死者を弔う《涅槃》1960年
怨念が迫ってくるような迫力でした。

福田豊四郎(1904-1970)
実はこの人も私の知らない日本画家でしたが、
《早苗曇り》1930年 って絵がすごく私好み!!
第11回帝展特選の大きな絵で、馬で代掻きをしている
美しい農村風景をバックに、早苗を運ぶ馬に乗った少年。
馬に乗った少年を見上げるように鑑賞すると、
こちらも少年から見られているよう。馬の足元の
草も丁寧に描かれていてとてもいい!

ラクダを描いた《蒙彊》1939年 も面白いなと。
従軍画家として満州・蒙古などに派遣されて描いたものだそう。

《山脈(からす)》1941年
山脈の上空を飛ぶカラスが黒い飛行機のよう。

《落下傘[神兵降下]》1943年
戦争記録画なんだろうけど、下に見える落下傘の形とか面白いなぁと。

戦後1947年の《暮沼》は穏やかな鷺の絵。

松本竣介(1912-1948)
展覧会のチラシやポスターに使われているのが
松本竣介《立てる像》1942年
NHK日曜美術館で、
太平洋戦争直前の昭和16(1941)年、軍部が「国策のため筆を取れ、戦争画を描け」と 命じたのに、ただ一人異を唱え、 「画家は腹の底まで染みこんだ肉体化した絵しか描けぬ」と言い放った “抵抗画家”がいる。当時29歳の青年、松本竣介(1912-1948)である。
(日曜美術館のウェブサイトより)
だとやっていました。(2012年8月5日放送)
そんなことを言えば、当時どんなに非難されたか!
戦争反対などと言えば、逮捕されて虐殺された時代。
これだけのことを言うのが、いかに危険で、勇気のいることだったか!

そんな松本竣介のほぼ等身大の自画像
「滅私奉公」が求められた時代に、自分を描くこと。
この人物は、何を見て、何を考えているのだろうと。
時流に流されまいと地面を踏みしめているようにも思えます。

私はNHK日曜美術館で松本竣介を知ったので、
《立てる像》や、《議事堂のある風景》1942年、《Y市の橋》1944年頃のような、
建物や風景を描いた画家だと思っていたのですが、
《街》1938年や、《街にて》1940年 などの、ブルーを基調にした、
どこか詩情あふれるような作品がいいなって思いました。
特に、小品だけど《郊外》1938年のブルーとグリーンの中のモダンな家、
なんか幸福感のようなものを感じて好きです。

日曜美術館で紹介されていた松本俊介の遺作
《建物》1948年 を見られたのも嬉しかった。

藤田嗣治(1886-1968)
次のコーナーで、大きな、これぞ戦争画って絵
《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》1942年 が目に飛び込んできました。
画家の名前を見ると、藤田嗣治。え?! あの乳白色の裸婦の?って。
(チラシ裏面に使われています)
gakatatitosensou-2.jpg

藤田嗣治は、現時点において、日本最高の戦争画家」だそう。
この《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》は、
実際に陸軍から現地に派遣されて、戦跡の風景をスケッチして、兵士たちから取材して
描いたもの。シンガポールから来た人が、この風景はそのままだと言ったそう。

乳白色の裸婦も展示されていました。興味深かったのは、
戦前と戦後とで、全く同じポーズの裸婦の絵が展示されていたこと。
1931年の《眠れる女》公益財団法人平野政吉美術財団蔵と、
1947年の《私の夢》新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵
戦前の絵はいかにもフジタってイメージで、裸婦の傍らには
子猫が平和に眠っているけど、戦後のは裸婦の回りを
服を着た猫やら犬やらが取り囲んで、なにやら不気味な悪夢のよう。

1936年に描いた《自画像》公益財団法人平野政吉美術財団蔵 も面白いなぁと。
生活感あふれる日本の部屋で、猫を懐に入れて、
食後のタバコをふかす姿‥‥フツーこんなしどけない姿を描きませんよね。
達者に描ける人だったんだなぁと。

福沢一郎(1898-1992)
この人も私は知りませんでした。
《他人の恋》1930年や、《よき料理人》1930年、
《美しき幻想は至る所にあり》1931年と、なにやら意味深に見える絵が
並んでいます。

シュルレアリスム運動の指導的立場にあった画家・福沢一郎は、
1941年4月5日に治安維持法違反の嫌疑で検挙・拘束され、
10月10日、起訴猶予で釈放されたとのこと。

このシュルレアリスム弾圧事件で、
釈放後の戦争中は美術文化協会の存続のために
《船舶兵基地出発》1945年 のような戦争画も描いたそう。
(この作品は参考作品として複製画のパネル展示でした)

戦後はすぐに「シュルレアリスム弾圧事件」に抗議する個展を開催。
ダンテの『神曲』を連想させる《世相群像》1946年 などを描いたそう。
弾圧に対する怒りや戦後の混乱した世相を描いた地獄絵図なんでしょうか。
‥‥私個人的にはこういった絵好きじゃないんですけど。

1955年の作品《顔》とかはシュルレアリスムでもない抽象絵画?

あまり私の好みじゃない絵なんですけど、
大作《牛》1936年 は、その迫力に圧倒されました。
このグロテスクな牛は、ミノタウロスの神話を下敷きにして、
「五族協和」「王道楽土」と讃えられる満州国を表しているのではないかと。

階段を上がって2階の展示室へ入ると、

北川民次(1894-1989)
名古屋市美術館のコレクション展でもよく見ている北川民次
《トラルパム霊園のお祭り》1930年 も展示されていました。

アメリカで働きながら学び、メキシコで革命後の
「メキシコ壁画運動」と「野外美術学校運動」に参加して
1936年に帰国した北川民次。

しかし22年ぶりの祖国は、日中戦争に突入して
戦時体制が厳しくなってきていた。

そんな中で制作された《鉛の兵隊(銃後の少女)》1939年
戦時体制下らしい作品だなって見ていたけど、
解説を聞いて目からウロコだったのは、
「日本軍の攻撃に国旗を捨てて敗走する中国軍」って
いかにも軍部が喜びそうな絵だけど、遊ぶ少女は
「青い目の人形」を今でも大事に可愛がっていること、
軍国少女なら、この場面でにっこり笑うハズなのに、
退屈そうな表情をしていること。メキシコで自主性を尊重する
教育を受けて帰国した民次の娘は「滅私奉公」の日本の教育に
戸惑っていただろう。民次の反戦思想が隠されているのだと。

そっかー!! 北川民次のユーモアあふれる反骨精神ですね。

《焼跡》1945年!!←多くの画家が敗戦の虚脱状態にあっただろう頃に
描かれた絵の、泣く母親に対する子供たちのたくましさ!

民次の反骨精神は戦後も発揮されて、
女性のヌードと土人たち? って《雑草の如くⅢ》1949年 は、
ヌード・モデルを若い画家たちが担いで銀座を練り歩いた二科会展前夜祭の
催事に対する痛烈な風刺なのだと。

《いなごの群れ》1959年 も、沖縄の軍用地の接収問題を告発した絵だそう。

吉岡堅二(1906-1990)
この人も私の知らない日本画家でした。後期のみの展示でした。
第11回帝展で特選をとった《奈良の鹿》1930年
穏やかで美しい日本の風景で、私好みのいかにも日本画だなって見たけど、
背景の山などにキュビスム的な表現が見られると。

解説会では《海浜》1934年 と三岸好太郎の絵との共通点とか、
アルタミラの洞窟壁画などからも取り入れていったことがわかりました。

1階で展示されていた福田豊四郎とともに従軍画家として派遣されて、
同じように駱駝を描いているけど、それぞれの違いが見られて面白い。

戦争記録画《雨中急追》1941年
雨の中を自転車で追撃する軍隊‥‥今見ると、なんだかなぁー、
こんな状態で戦っていたワケ?って思うんだけど。

吉原治良(1905-1972)
大阪の国立国際美術館へ行った帰り、ぶらぶら歩いていると、
「グタイピナコテカ跡」って看板があり、
吉原治良を中心とした現代アート「具体美術協会」を知りました。

大阪・国立国際美術館と里山カフェ
http://shizukozb.blog.so-net.ne.jp/2013-10-21

吉原治良は画家であり企業家であったと。

戦前に、《図説》1934年 や、《作品A》1936年 などの抽象画を
描いていたが、戦時体制下で抽象絵画が攻撃されるようになると、
吉原は《雪山》1940年 や、《菊(ロ)》1942年 などの、
具象画に見えるような作品を描く。
これは「後退」ではなく、勇気ある「撤退」であったろうと。
企業人でもあった吉原には、会社を守る責任があったと。

《作品A》と《雪山》が並べられていると、よく似ていることに気が付きます。

しかし戦後、スグに純粋抽象へ復帰できたわけでなく、
《涙を流す顔》1949年 のような人間(だとわかる)を描いたりして、

吉原治良の代名詞「円」の出発点となった作品《UNTITLED》1962年
に至るわけですね。

2階展示室の最後が、 山口薫(1907-1968)
この人も私知りませんでした。
正直、ふーん‥‥、うーん‥‥ってカンジ。作品を見てきて疲れたということと、
解説会が間もなく始まるというアナウンスがあって、焦っていたこともありますが。

《紐》1939年 の真っ赤(朱)な画面に抽象画のような紐だけを描いた絵は、
なんじゃこりゃーと思いながらも、面白いなーと思いました。

解説会では、山口薫の戦時下の作品は朱色がベースだと。

《練習機飛ぶ》1944年 って絵も、戦争画かもしれませんが、
タイトルがなければ飛行機に気がつかないくらいの不思議な絵ですね。

2階の会場出口スグが解説会が開催された講堂入口でした。
この部屋入るの初めてです。
2時からの開催でしたが、展示されている12人の画家についてそれぞれ
熱心に解説されるので、解説が終わったのが4時を過ぎていました。

そこで、まだ宮本三郎と岡鹿之助を見ていないことに気づき、
質疑応答の途中でしたが、地下の展示室へ。

岡鹿之助(1898-1978)
点描による静かな風景画を描く岡鹿之助は、もし戦争がなかったら、
おそらく日本に帰国することなく、ずっとフランスで過ごしたのではないかと。

戦前のパリで制作した《信号台》1926年 で、もう
岡鹿之助の画風が確立されています。

しかし、ドイツ軍のパリ占領によって帰国を余儀なくされ、
久しぶりの祖国は厳しい戦時体制下にありました。

油絵具やキャンバスの輸入も激減し、国産の粗悪な代用品しかなかったと。
そんな中で、岡鹿之助の画面は暗く、色彩を喪失したかのような
《白鷺城》1942年、《農家》1943年 が制作されます。

戦後もしばらくは色が戻らなかったと。解説会で、
展示されていた横浜美術館蔵《橋》1948年 と、
愛知県美術館蔵《窓》1949年(「芸術植物園」展に展示されてました)を
比べていましたが、同じ場所を描いていますが、火見櫓が煙突になり、
窓枠とカーテン、植木鉢のある《窓》は、戦前の暖かな色を
取り戻したかのようで興味深かった。

切手にもなっている代表作《雪の発電所》1956年 が見られたのも嬉しかった。

宮本三郎(1906-1974)
2011年6月19日放送のNHK日曜美術館で、宮本三郎が、最も有名な戦争記録画
《山下、パーシバル両司令官会見図》を描いた画家で、
そのことが戦後つきまとうことになったと。
放送では、死後アトリエから《死の家族》1950年 が発見されたと。
大地に横たわる死せる男と、その死を悼む妻の姿。
戦争画を制作したことに対する「懺悔」として、発表を前提としないこの
作品が描かれたのではないかと。

デッサン力に優れた宮本三郎は、挿絵画家としても名声を確立していたし、
ずっと女性やファッションを描いてきていて、従軍画家として派遣された
戦地で制作した《マライの娘》1943年 は、エキゾチックな南国の少女を
生き生きと描いていていいなぁーと。

宮本三郎の戦争画としては、《シンガポール英軍の降伏》1943年
が展示されていました。これは絵葉書の原画だそう。

宮本三郎にとって、戦争画を描くことは、軍の要請に応えて描く
挿絵のようなものではなかったかと。

戦争画を描いたことを非難することはできないだろうと私は思います。
あの時代、画家が戦争画を描くのは、応召されて戦争に行くようなもの
だったのではないでしょうか。

宮本三郎は一貫して裸婦を描きたかっただろうに、戦争中は
裸婦を描くことができなくて、思えば気の毒だなと。

この展覧会、前期と後期で展示替えがあり、
前期のみの展示が、横山大観と恩地孝四郎でした。見られなかったのは
ちょっと残念ですが、図録見ると、横山大観は富士山の絵ばかりで、
私、こういう横山大観の絵のどこがいいのかよくわからないんですよ。
あまりに安直で通俗的じゃないですか?
戦前も戦争中も戦後も変わらずに富士を描いているのも、なんだかなーって。

地下1階の展示室を出たら、もう4時半近くなっていましたが、
コレクション展も駆け足で見ました。そのことは次の記事で。


★オマケ★

「クォ・ヴァディス」って言葉、私は
樹村みのり『ローマのモザイク』(初出:1975年別冊少女コミック2月号)で知りました。

おそらく作者の体験をもとにした物語で、
治安が悪いからひとり歩きはするなと言われていたローマで、どうしても
クォ・ヴァディス聖堂を見たくて、ひとり歩きをすることになった私。
たまたま会った、聖堂の隣に住むおじさんにものすごく親切にされて感動する話。

クォ・ヴァディス聖堂は
市内の大きな教会を たくさん見たあとでは  それは小さすぎるほどの 建物でした

聖堂の中には その昔 イエスが立っていた といわれる場所に  大理石の足跡が ありました
QuoVadis.jpg

こちらの単行本「星に住む人びと」に収録されているそうなんですが、
今は中古も売切れのようですね。


「ミノタウロス」って言われて思い浮かぶのはやっぱり、
藤子・F・不二雄の傑作『ミノタウロスの皿』ですね。


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