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岐阜県美術館後援会バスツアー(3)佐川美術館「田中一村展」 [美術]

9月13日(木)、岐阜県美術館後援会のバスツアーに行ってきました。

京都国立近代美術館「東山魁夷展」を見て、
https://shizukozb.blog.so-net.ne.jp/2018-09-20

祇園・花郷にて懐石料理をいただきました。
https://shizukozb.blog.so-net.ne.jp/2018-09-24

京の街歩きで迷った人がいて、予定より1時間以上遅れましたが、
バスは琵琶湖大橋を渡って
(琵琶湖周航の歌が流れるメロディーロードがあるんですね!)

佐川美術館に、閉館時間1時間前の4時に着きました。
水に浮かぶような佐川美術館の建物はやっぱりカッコイイです。
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佐川美術館には一度来たことがあります。(1回しか来たことが
なかったんだ。もう一回くらい来てたかと思ってた。)
佐川美術館「セガンティーニ展」
https://shizukozb.blog.so-net.ne.jp/2011-08-19
佐川美術館 平山郁夫・佐藤忠良・樂吉左衛門館
https://shizukozb.blog.so-net.ne.jp/2011-08-19-1

鑑賞時間が1時間しかないので(もっと前に着いていても、
佐川美術館の鑑賞時間は1時間の予定だったんですけど)
他の展示はあきらめて「田中一村展」だけ見ようと思ってました。

田中一村展のチラシ。2つ折りで素敵!!
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第一章 青少年時代、若き南画家 (1915~1930年:7~22歳)

最初に展示されていたのが、田中一村7歳の作品!!
上手い! 「神童」と呼ばれていたってのも頷けます。
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落款が「米邨」となっているのは、一村と改名する前の雅号で、
(本名は孝) 父が「稲村」という雅号の彫刻家で、
その子どもだから「米邨」だと、つけ(られ)た名前だそう。
(「邨」は「村」の本字)

この作品、落款の下が一部切り取られているんですが、
父親が絵に手を入れたのが気に入らなくて一村が破いたそう。
7歳にしてこのプライド!!

バスの中で、岐阜県美術館の学芸員さんからもお話を聞いたのですが、
多くの人が抱く田中一村のイメージは、
NHK「日曜美術館」などで紹介されて知った、
奄美大島の自然を描いた孤高の画家というものではないかと。

はい、私も「日曜美術館」で知って――今年7月29日に放映された
「奄美の森に抱かれて~日本画家 田中一村~」より以前に放送された
ものを見て――こんな日本画家がいたんだって驚いたんです。
(今年の放送は佐川美術館の展覧会場で撮影されていて、
すごくいい予習になりましたけど)

でも、今回の企画展では、奄美大島の画家というだけでなく、
それ以前の、神童と呼ばれた幼少年期から
東京美術学校へ現役入学するも2ヶ月で退学、
長い模索と不遇の時代を過ごした田中一村の生涯、
創作の軌跡が展示されているので、それを見てほしいと。

私、今回の展覧会では、若い頃の南画の迫力がすごいって感じました。
(まあ展覧会場の後半、かなり時間がなくて、
ゆっくり見てられなかったせいもありますけど)

全長5mの《墨梅長巻》1926年 18歳 の、
まるでアクションペインティングのようだと見た力強い墨の色とか、
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墨彩の《蘭竹図》と、毒々しいような鮮やかな色彩の《富貴図》が
両面に描かれた金地の衝立の迫力!! 1929年 20歳 の作品
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力強い字もいいなぁと。

2曲1双の金屏風に描かれた《椿図屏風》1931年 も素敵!!
‥‥この屏風、片方が何も描かれてない? でももう片方には
金地に濃密に椿が描かれていて、すごく私の好みです。

東京美術学校に現役で優秀な成績で入ったのに、
2ヶ月で退学してしまったのは、家の事情とか、自身の病気とかも
あったろうけど、南画が時代遅れとみなされてきていたことで、
美校での居場所がなかったのではないかと。

第二章 千葉時代、新しい画風の模索 (1931~1946年:23~38歳)
23歳の時に南画と決別し、「本道と信ずる絵」と考える新しい絵画への 挑戦を目指した一村。支援者から賛同を得られないまま寡作の時代が続き、 30歳で母方の親戚を頼って千葉に移住します。千葉では20年間ひたすら 農村の風景、自然の景色、動植物の写生に没頭し(後略) チラシ中面より

のどかな千葉寺の農村風景や、観音像などもありました。
若い頃の作品と比べて、画題のせいもあるんだろうけど、
穏やかであっさりした感じ‥‥

第三章 一村誕生 (1947~1957年:39~49歳)
1947年に《白い花》で画壇へのデビューを果たすとともに、 米邨から一村へと改名。この頃から日展や院展など画壇への挑戦を 試みるもことごとく落選の憂き目にあった一村は、画壇と決別し、 独自の画道を邁進します。

大きな画面に、ヤマボウシの白い花(正確には総苞)と緑の葉が
描かれた《白い花》 爽やかで気持ちのいい作品だなって見ました。

しかしその翌年、自信作だった《秋晴》は落選。
2曲1隻の金箔屏風に、写実的な農村風景が描かれていて、
木に干した大根の白が目立ってます。
琳派のような装飾性と写実性が合わさって、私はこの作品、
とてもいいなって思うんですが‥‥
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もう一つの出品作《波》は入選したけど、自信作の落選に納得できなくて、
《波》の入選を辞退し、青龍社展を離れます。

1955年、新しい転換を求めて一村は九州へ旅立ちます。
阿蘇山や青島の風景に感動したよう。
阿蘇草千里を描いた《放牧》
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この絵はがきは、添乗員さんが「スケジュールが遅れたお詫びに」と、
参加者に配ってくれました。
下の鶴の絵は、奄美へ渡った後、一時千葉へ帰省した一村が、
支援者に渡した絵《紅梅丹頂図》1960年 とのこと。

第四章 奄美時代、旅立ちと新たなる始まり (1958~1977年:50~69歳)
50歳にして住み慣れた千葉を引き払い、新天地・奄美大島へ渡った一村。 紬工場で染色工として生計を立てながら、69歳で亡くなるまでの19年間、 奄美の大自然の状景や色鮮やかな花鳥画を描きます。

展示後半は、時間を気にして、しっかり見てないんですね。
図録を買いたかったので、ショップが閉店してしまわないか心配だった
こともあって、焦っておりまして‥‥今回の展覧会の図録はなくて、
田中一村の画集が2種類置いてあったので、奮発して大きい方を買いました。

「田中一村作品集 増補改訂版」3,888円
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大きな画面で見る奄美の自然―亜熱帯の濃密な空気感のようなもの?―が
迫力で迫ってきます。

奄美行きの資金のために描いた襖絵の、伝統的(琳派風)な日本画も、
私の好みでとてもよかった。

ひたすらに自分の絵の道を追求した一村。
しかし、生前それらの作品を発表する機会もなく無名のままこの世を去ります。
なんか胸に迫ってくるようなものを感じます。
田中一村が知られるようになって本当に良かった‥‥。

ショップで、奄美大島の黒砂糖が売られていたのでお土産に買いました。350円
(奄美の大島紬美術館のミュージアムグッズらしいです)
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奄美大島へ行って、田中一村が描いた島の自然や、
田中一村美術館を見てみたくなりました。

バスは、閉館時間の5時に佐川美術館を出発、養老SAで休憩して、
岐阜駅に7時過ぎに到着。予定よりだいぶ遅くなったけど、
充実したツアーでした。
(でも、もっと美術館で鑑賞時間とってほしいなぁー)

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