大阪中之島美術館「佐伯祐三」展 [美術]
6月11日(日)、大阪中之島美術館へ行きました。
「開館1周年記念 特別展
佐伯祐三
自画像としての風景」
大阪中之島美術館が、実業家・山本發次郎の
コレクションが寄贈されたことが契機となって
設立されたことは、
大阪中之島美術館が開館(2022年2月2日)した
昨年、2月27日放送の「日曜美術館」で紹介してましたね。
「大阪中之島美術館~蒐(しゅう)集もまた創作なり~」
昨年行った「モディリアーニ」展でも書きましたが、
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2022-06-14
山本發次郎45歳の時、佐伯祐三の《煉瓦焼》と出会って、
衝撃を受け、それからわずか5年で、
佐伯祐三の主だった作品およそ150点を集めてしまいます。
美術館を作りたいという希望はあったが、
日本が戦争に突入して、それどころではなくなり、
戦争末期には空襲のために収集品を保管することすら
危うくなり、軍に嘆願して、コレクションの一部は
なんとか疎開させることができたが、その3週間後、
空襲で邸宅は全焼、佐伯作品の3分の2が焼失してしまったと。
(あぁ、なんてモッタイナイ‥‥)
そんな経緯で、「世界一のコレクション」を誇る
大阪中之島美術館、待望の「佐伯祐三」展
この展覧会、東京ステーションギャラリーで
2023年1月21日(土)~4月2日(日)に開催された後、
大阪中之島美術館に4月15日(土)~6月25日(日)と
巡回してきました。
今年3月に「エゴン・シーレ展」を見に東京へ行った時、
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-04-04
ついでに「佐伯祐三」展もって、候補には入れてたんですが、
東京国立近代美術館「重要文化財の秘密」展へ
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-04-19
行ってしまいまして。まぁ、大阪の方が近いし、
東京展より展示作品が20点も多いそうなので良かったかな。
6月11日(日)、JR西岐阜駅前の駐車場に停めて、
9:54の米原行きに乗車、米原から新大阪まで新幹線を奮発。
新大阪から地下鉄御堂筋線で淀屋橋へ
土佐堀川沿いの歩道を通って、
歩道には多くの彫刻が設置されています。
藤木康成《陽だまりに遊ぶ》1989
天野裕夫《十魚架》平成元年3月
大阪中之島美術館に着いたのは12時少し過ぎ。
オンラインでチケット買っといた方がいいかな?って、
少し心配してたけど、2階のチケット売り場で、
それほど並ばずに買うことができました。
当日一般 1,800円 (入場日時の指定なし)
ついでに、4階で開催していた(「佐伯祐三」展は5階)
「デザインに恋したアート♡アートに嫉妬したデザイン」の
チケットを、当日一般1,600円のところ、相互割引で
100円引きの1,500円で購入。
長~いエスカレーターに乗って5階へ。
なんと、「佐伯祐三」展、一部を除いて撮影可!!
最初に佐伯祐三のライフマスク(1921年頃)があり、
プロローグ――自画像
佐伯祐三は初期に多くの自画像を描いています。
あ、これ2021年の
一宮市三岸節子記念美術館「自画像展」
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2021-03-19
に来てた、三重県立美術館所蔵の《自画像》
こちらをまっすぐ見つめる目がとても印象的でした。
‥‥あれ? その展覧会では、この作品
1917年、佐伯19歳の作品ってなってたけど、
今回、1920-23年頃って記されている??
東京美術学校の卒業制作として描かれた
《自画像》1923年 東京藝術大学蔵
中村彜の《エロシェンコ氏の像》からの影響が指摘されているそう
東京国立近代美術館「重要文化財の秘密」展で見た
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-04-19
《エロシェンコ氏の像》1920年
私には、ふーんこれが重要文化財? くらいの印象だったけど、
柔らかなタッチが似ているかな?
こっちはセザンヌ風!
《パレットをもつ自画像》1924年 ENEOS株式会社
そして、パリでヴラマンクに「アカデミック!」と叱責された
後に描いた《立てる自画像》1924年 大阪中之島美術館
なぜこの作品が壁に掛けられていないのか、それは、
裏側に《夜のノートルダム(マント=ラ=ジョリ)》1925年
が描かれているから。
佐伯にとってこの自画像は満足のいく出来ではなかったのか?
第1章――大阪と東京
《目白自宅附近》1922年頃 大阪中之島美術館(浅見家寄贈)
なんてことのない冬枯れの雑木林だけど、
柔らかく暖かな光にあふれた風景で、いいなって。
米子と結婚し、下落合661番(現・新宿区立佐伯公園)に
新築したアトリエの南側に広がる風景だそう。
2年間のパリ滞在を経て、佐伯は1926年3月に日本に戻ります。それから約1年半の一時帰国時代、集中的に取り組んだ画題が「下落合風景」と「滞船」でした。
《下落合風景》1926年頃 和歌山県立近代美術館
同じ下落合の風景を描いた作品ですね。
右《下落合風景》1926年頃
電柱の中空に伸びる線を気に入ったのではないかと
《白い壁の家(下落合風景)》1926年頃 瀬戸内市立美術館
白い壁の重厚な質感がいいなって見ました。
左《下落合風景》1926年頃 ポーラ美術館
右《ガード風景》1926-27年 個人蔵
《下落合風景》1926年頃 学校法人甲南学園甲南小学校
油絵具の重厚なタッチがいいなって。
《雪景色》1927年 東京国立近代美術館
大阪で集中的に描いたのが「滞船」
空に向かって伸びる帆柱やそこから引かれた帆綱の
幾何学的な構成が気に入ったのではないかと。
《滞船》1926年頃 ENEOS株式会社
《滞船》1927年 ポーラ美術館
柔らかく暖かな色彩で描かれた、
佐伯の一人娘・彌智子(やちこ)1歳頃の姿
思わず微笑んでしまうような、佐伯の愛情あふれる絵。
フランス語を上手に話し、佐伯の友人たちにも可愛がられた
彌智子だが、佐伯が死去して約2週間後、父と同じ
結核によりわずか6歳で亡くなります。
《彌智子像》1923年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
隣には妻の《米子像》1927年 三重県立美術館
こちらはサッと引かれた線できりっとした顔が
捉えられています。パリで佐伯と一人娘を亡くし、
帰国した米子は、一人下落合のアトリエに戻り、
洋画家として二科展、戦後は二紀展を中心に活躍したそう。
左《大谷安兵衛像》1920-23年頃 大阪中之島美術館(小原大二氏寄贈)
右《大谷さく像》1920-23年頃 大阪中之島美術館(小原大二氏寄贈)
佐伯が美術学校在学中に下宿していた家の
大谷さくと、兄の安兵衛の肖像画 本展が初公開とのこと
雨で写生に出られない時などに、アトリエで制作した
静物画が並んでいました。
《テレピン油のある静物》1925年頃 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
アトリエで目の前にあったものを描いたのかな?
箱の文字も面白いなって。
ニンジンや、蟹や鯖など、身近なものを素早く描いた
小品が並んでいて面白かった。
《人形》の絵のモチーフは、佐伯が1ヶ月分の生活費にあたる
1000フランで衝動買いした男女一対の女性の方だとか。
第2章――パリ
1924年1月、妻子とともにパリに到着し、充実した留学生活を
スタートさせた佐伯祐三。
積極的に作品を見てまわり、とりわけセザンヌに感銘を受けた
とのことで、このセザンヌの影響がわかる風景画。
明るく柔らかな色彩、私この風景画好きです。
《パリ遠望》1924年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
大きな転機が、6月30日に里見勝蔵に伴われてヴラマンクを訪ね、
自信作の《裸婦》を見せたところ、「このアカデミック!」と
痛罵されてしまったこと。
そこから、まずはヴラマンクに倣った
暗く重厚な筆致で郊外の風景を描きます。
《オワーズ河周辺風景》1924年 和歌山県立近代美術館
左《風景》1924年頃 大阪中之島美術館
右《風景》1924年 個人蔵
今年2月に行った
ヤマザキマザック美術館「パリに生きた画家たち」展
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-02-15
この頃の作品が、隣にヤマザキマザック美術館所蔵の
ヴラマンク作品と並べて展示されていて、
厚塗りの激しい筆致や斜めに歪んだ家々など、
とてもよく似ているなって見ました。
秋に再び里見勝蔵と共にヴラマンクを訪ねた佐伯は、
「物質感はナマクラだが、大変優れた色彩家」と褒められたと。
《オーヴェールの教会》1924年 鳥取県立博物館
ゴッホ終焉の地・オーヴェール=シュル=オワーズ
佐伯はヴラマンクとの衝撃的な出会いの翌日に、
ゴッホ兄弟の墓を詣で、ガシェ博士の所蔵する20点余りの
ゴッホ作品を見学した。
この作品は、オーヴェールを再訪した際に制作されたもの。
ゴッホも描いた教会をほぼ同じアングル、構図で描いている
とのことだけど、印象は、同じ教会? って思うほど違ってます。
《煙突のある風景》1924年頃 個人蔵
絵が掛けられている壁紙の色が少し濃くなってますね。
2-2 壁のパリ
1925年、佐伯は郊外のクラマールから
パリ15区の下町のアトリエに移り、
付近の通りに画架を立て、街の風景を描き始めます。
ヴラマンクの影響下にあった荒々しい郊外風景から、
ユトリロに影響を受けたパリの街並みへ、
そして、建物を正面からとらえ、時にはその壁のみで
構成された画面へ
同じ建物を正面から描いた絵が並んでます
左《レ・ジュ・ド・ノエル》1925年 和歌山県立近代美術館
右《レ・ジュ・ド・ノエル》1925年 大阪中之島美術館
左《コルドヌリ(靴屋)》1925年 石橋財団アーティゾン美術館
右《コルドヌリ(靴屋)》1925年 茨城県近代美術館
興味を抱いた対象に執着して何点も制作することは
佐伯の特徴の一つで、サロン・ドートンヌに出品して
ドイツの絵具屋に買い上げられた《コルドヌリ》も
これらに類似した作品だったろうと。
《パリの街角(家具付きホテル)》1925年 大阪中之島美術館寄託
《パリの街角》1925年 和歌山県立近代美術館
この建物は荻須高徳が好きそう、なんて見ました。
佐伯の後輩画家で、モラン写生旅行にも同行した荻須高徳
初期には佐伯と見分けがつかないような絵も描いていたけど、
次第にどっしりと落ち着いたパリの街の絵になっていきますね。
《壁》1925年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
壁に書かれた広告の文字に紛れるように、
署名と佐伯作品には珍しく完成した日付(1925年10月5日)が
記されています。
左《広告のある門》1925年 和歌山県立近代美術館
右《門と広告》1925年 埼玉県立近代美術館
1926年1月14日、健康状態について心配する家族の説得を受け、
佐伯一家は日本に帰国するため、パリを離れます。
もう一度パリを描いきたいと、シベリア鉄道でパリに到着したのが、
1927年8月21日
2-3 線のパリ
解説パネルには、洒落たランプもついてます!
2回目のバリの作品の壁紙は鮮やかなローズ色ですね
《オブセルヴァトワール附近》1927年 和歌山県立近代美術館
佐伯一家と親しく交流したヴァイオリニスト・林龍作が住んでいた
部屋からの街を描いた作品。画面左下から右奥へと走るのが
モンパルナス大通りで、佐伯のアトリエは左から7番目の建物に
あったとのこと。
佐伯祐三といえば想起される、画面を跳躍する線描
ポスターの文字が軽やかに描かれてます。
《オブセルヴァトワール附近》1927年 大阪中之島美術館
《街角の広告》1927年 大阪中之島美術館
《新聞屋》1927年 朝日新聞東京本社
新聞はこんなふうに売られてたのかー。
新聞の文字が躍ってます。
《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》1927年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
広告の文字だけでなく、テーブルや椅子の線、
署名の文字も画面上で踊っているみたい。
《テラスの広告》1927年 石橋財団アーティゾン美術館
《広告貼り》1927年 石橋財団アーティゾン美術館
《共同便所》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
ポスターの文字がリズミカルな佐伯らしい絵だけど、
この建物「エスカルゴ」とも呼ばれたパリの公衆便所なんですって?!
佐伯にしては珍しい? 人物画
《靴屋》1927年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
1928年、肺の病が進行して身体の衰弱は進むが、
制作ペースは加速して、
2月にヴィリエ=シュル=モランへ発つ前のパリで
工場を題材とする3点をわずか2日で仕上げている
《工場》1928年 田辺市立美術館(脇村義太郎コレクション)
《白い道》1928年 島川美術館
パリの街のような広告がないので、それまでと
ちょっと違う印象だけど、堂々としていいなって。
第3章――ヴィリエ=シュル=モラン
壁紙の色が深い緑に変わります。
吊り下げられた幕の写真はモランの寺の前の佐伯?
パリから電車で1時間ほどの小さな村
ヴィリエ=シュル=モラン
《モランの寺》1928年 大阪中之島美術館
《モランの寺》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
モランの中心に位置するこのサン=レミ教会を、
佐伯は異なる構図で15点制作しているとのこと(一部は焼失)
ヤマザキマザック美術館「パリに生きた画家たち」展
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-02-15
にも、《モランの寺院》が展示されてて、
とても素敵だって見ました。
左から、
《モランの寺》1928年 東京国立近代美術館
《モランの寺》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《モランの寺》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《モラン風景》1928年 和歌山県立近代美術館 と、
モランでの写真
股の間から顔をのぞかせるのが佐伯、その右に
荻須高徳、山口長男、横手貞美
モラン写生旅行に同行したのは後輩画家の
荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美に米子と彌智子
楽しそうな佐伯の様子だけど、
創作態度は厳しく、午前に1枚、午後に1枚と自らに課し、
思う結果が得られなかった日にはさらに
夕方に描きに出ることもあったと。
厳しい寒さの中で自らを追い込むような制作は、
確実に体力を奪っていきます。
《納屋》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《モラン風景》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《煉瓦焼》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
昨年放送された「日曜美術館」で、山本發次郎氏は、
佐伯祐三の《煉瓦焼》と出会って
「胸に動悸打つ異様な感じ」と、衝撃を受け、
佐伯の絵を収集するようになったって知りましたが、
それが納得できる、なんかすごい迫力の絵です。
入口をくぐって入った部屋のようになった最後の展示室、
壁紙の色も渋いベージュ色
エピローグ――人物と扉
佐伯祐三の絶筆に近い作品が展示されています。
1928年3月、小雨の中での制作がもとで風邪をこじらせ、
体調がすぐれない日々を過ごしていた佐伯は、偶然に
自宅を訪れた郵便配達夫に創作意欲をかきたてられ、
絵のモデルを依頼します。後日、自宅を訪れた
郵便配達夫を前にして、その日のうちに、
グワッシュ1点(戦火により焼失)、
《郵便配達夫(半身)》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
そして《郵便配達夫》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
を描きます。
佐伯祐三の代表作ともいえる絵ですね。
切手にもなってたなー。
創作意欲をかきたてられたのは、
ゴッホの「郵便配達人」のイメージがあったからかな?
そして、モデルに使わないかと扉をたたいた
ロシアの亡命貴族の娘を描いた
《ロシアの少女》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
わずかに体力が回復した時に戸外へ出て描かれた2つの扉の絵
《黄色いレストラン》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《扉》1928年 田辺市立美術館(脇村義太郎コレクション)
病床の佐伯が、この2枚は僕の最高に自信のある作品なので
売らないようにと頼んだそう。
3月末に喀血して病臥し、それ以降、再び筆を持つことはかなわず、
病状の悪化とともに精神状態も不安定となり、
パリ郊外のヴィル・エヴラール精神病院に入院、
8月16日に亡くなります。
30歳の短い生涯、本格的に画業に取り組んだのは
わずか4年余りという、
その短い期間で、まぁ、よくこれだけの作品を! って
驚いた展覧会でした。これでも「日曜美術館」によると、
戦災で佐伯作品の3分の2が焼失してしまったとか‥‥
そして、これだけの作品が一堂に集められているのも感動です。
これは、コレクターの山本發次郎氏のおかげ
って言ってもいいかもしれませんね。
日曜美術館のタイトルでもある
「大阪中之島美術館~蒐(しゅう)集もまた創作なり~」
出口のところに、1937年に開催された
「山本發次郎氏所蔵 佐伯祐三遺作展覧会」の
ポスターが展示されていました。
山本發次郎氏所蔵の108点が展示されたそう。
展示台には展覧会にあわせて出版した
「山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三画集」
開かれたページに載っているのは、
戦災で焼失したグワッシュで描かれた郵便配達夫の絵だそう。
戦火をまぬがれた佐伯作品のうち33点が、
1983年、遺族により大阪市に寄贈されたことが
大阪中之島美術館設立のスタートとなったんですね。
「山本清雄氏寄贈」って記されている作品、
さすが、名品揃いだなーって見ました。
ショップで図録 2,800円(税込)と、
《郵便配達夫》と《煉瓦焼》の絵を缶に使った
ミニゴーフルのセット 1,188円(税込) を買いました。
4階の展覧会
「デザインに恋したアート♡アートに嫉妬したデザイン」
のことは、次の記事で――
大阪中之島美術館: https://nakka-art.jp/
「佐伯祐三」展特設サイト: https://saeki2023.jp/
「開館1周年記念 特別展
佐伯祐三
自画像としての風景」
大阪中之島美術館が、実業家・山本發次郎の
コレクションが寄贈されたことが契機となって
設立されたことは、
大阪中之島美術館が開館(2022年2月2日)した
昨年、2月27日放送の「日曜美術館」で紹介してましたね。
「大阪中之島美術館~蒐(しゅう)集もまた創作なり~」
昨年行った「モディリアーニ」展でも書きましたが、
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2022-06-14
山本發次郎45歳の時、佐伯祐三の《煉瓦焼》と出会って、
衝撃を受け、それからわずか5年で、
佐伯祐三の主だった作品およそ150点を集めてしまいます。
美術館を作りたいという希望はあったが、
日本が戦争に突入して、それどころではなくなり、
戦争末期には空襲のために収集品を保管することすら
危うくなり、軍に嘆願して、コレクションの一部は
なんとか疎開させることができたが、その3週間後、
空襲で邸宅は全焼、佐伯作品の3分の2が焼失してしまったと。
(あぁ、なんてモッタイナイ‥‥)
そんな経緯で、「世界一のコレクション」を誇る
大阪中之島美術館、待望の「佐伯祐三」展
この展覧会、東京ステーションギャラリーで
2023年1月21日(土)~4月2日(日)に開催された後、
大阪中之島美術館に4月15日(土)~6月25日(日)と
巡回してきました。
今年3月に「エゴン・シーレ展」を見に東京へ行った時、
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-04-04
ついでに「佐伯祐三」展もって、候補には入れてたんですが、
東京国立近代美術館「重要文化財の秘密」展へ
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-04-19
行ってしまいまして。まぁ、大阪の方が近いし、
東京展より展示作品が20点も多いそうなので良かったかな。
6月11日(日)、JR西岐阜駅前の駐車場に停めて、
9:54の米原行きに乗車、米原から新大阪まで新幹線を奮発。
新大阪から地下鉄御堂筋線で淀屋橋へ
土佐堀川沿いの歩道を通って、
歩道には多くの彫刻が設置されています。
藤木康成《陽だまりに遊ぶ》1989
天野裕夫《十魚架》平成元年3月
大阪中之島美術館に着いたのは12時少し過ぎ。
オンラインでチケット買っといた方がいいかな?って、
少し心配してたけど、2階のチケット売り場で、
それほど並ばずに買うことができました。
当日一般 1,800円 (入場日時の指定なし)
ついでに、4階で開催していた(「佐伯祐三」展は5階)
「デザインに恋したアート♡アートに嫉妬したデザイン」の
チケットを、当日一般1,600円のところ、相互割引で
100円引きの1,500円で購入。
長~いエスカレーターに乗って5階へ。
なんと、「佐伯祐三」展、一部を除いて撮影可!!
最初に佐伯祐三のライフマスク(1921年頃)があり、
プロローグ――自画像
佐伯祐三は初期に多くの自画像を描いています。
あ、これ2021年の
一宮市三岸節子記念美術館「自画像展」
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2021-03-19
に来てた、三重県立美術館所蔵の《自画像》
こちらをまっすぐ見つめる目がとても印象的でした。
‥‥あれ? その展覧会では、この作品
1917年、佐伯19歳の作品ってなってたけど、
今回、1920-23年頃って記されている??
東京美術学校の卒業制作として描かれた
《自画像》1923年 東京藝術大学蔵
中村彜の《エロシェンコ氏の像》からの影響が指摘されているそう
東京国立近代美術館「重要文化財の秘密」展で見た
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-04-19
《エロシェンコ氏の像》1920年
私には、ふーんこれが重要文化財? くらいの印象だったけど、
柔らかなタッチが似ているかな?
こっちはセザンヌ風!
《パレットをもつ自画像》1924年 ENEOS株式会社
そして、パリでヴラマンクに「アカデミック!」と叱責された
後に描いた《立てる自画像》1924年 大阪中之島美術館
なぜこの作品が壁に掛けられていないのか、それは、
裏側に《夜のノートルダム(マント=ラ=ジョリ)》1925年
が描かれているから。
佐伯にとってこの自画像は満足のいく出来ではなかったのか?
第1章――大阪と東京
《目白自宅附近》1922年頃 大阪中之島美術館(浅見家寄贈)
なんてことのない冬枯れの雑木林だけど、
柔らかく暖かな光にあふれた風景で、いいなって。
米子と結婚し、下落合661番(現・新宿区立佐伯公園)に
新築したアトリエの南側に広がる風景だそう。
2年間のパリ滞在を経て、佐伯は1926年3月に日本に戻ります。それから約1年半の一時帰国時代、集中的に取り組んだ画題が「下落合風景」と「滞船」でした。
《下落合風景》1926年頃 和歌山県立近代美術館
同じ下落合の風景を描いた作品ですね。
右《下落合風景》1926年頃
電柱の中空に伸びる線を気に入ったのではないかと
《白い壁の家(下落合風景)》1926年頃 瀬戸内市立美術館
白い壁の重厚な質感がいいなって見ました。
左《下落合風景》1926年頃 ポーラ美術館
右《ガード風景》1926-27年 個人蔵
《下落合風景》1926年頃 学校法人甲南学園甲南小学校
油絵具の重厚なタッチがいいなって。
《雪景色》1927年 東京国立近代美術館
大阪で集中的に描いたのが「滞船」
空に向かって伸びる帆柱やそこから引かれた帆綱の
幾何学的な構成が気に入ったのではないかと。
《滞船》1926年頃 ENEOS株式会社
《滞船》1927年 ポーラ美術館
柔らかく暖かな色彩で描かれた、
佐伯の一人娘・彌智子(やちこ)1歳頃の姿
思わず微笑んでしまうような、佐伯の愛情あふれる絵。
フランス語を上手に話し、佐伯の友人たちにも可愛がられた
彌智子だが、佐伯が死去して約2週間後、父と同じ
結核によりわずか6歳で亡くなります。
《彌智子像》1923年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
隣には妻の《米子像》1927年 三重県立美術館
こちらはサッと引かれた線できりっとした顔が
捉えられています。パリで佐伯と一人娘を亡くし、
帰国した米子は、一人下落合のアトリエに戻り、
洋画家として二科展、戦後は二紀展を中心に活躍したそう。
左《大谷安兵衛像》1920-23年頃 大阪中之島美術館(小原大二氏寄贈)
右《大谷さく像》1920-23年頃 大阪中之島美術館(小原大二氏寄贈)
佐伯が美術学校在学中に下宿していた家の
大谷さくと、兄の安兵衛の肖像画 本展が初公開とのこと
雨で写生に出られない時などに、アトリエで制作した
静物画が並んでいました。
《テレピン油のある静物》1925年頃 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
アトリエで目の前にあったものを描いたのかな?
箱の文字も面白いなって。
ニンジンや、蟹や鯖など、身近なものを素早く描いた
小品が並んでいて面白かった。
《人形》の絵のモチーフは、佐伯が1ヶ月分の生活費にあたる
1000フランで衝動買いした男女一対の女性の方だとか。
第2章――パリ
1924年1月、妻子とともにパリに到着し、充実した留学生活を
スタートさせた佐伯祐三。
積極的に作品を見てまわり、とりわけセザンヌに感銘を受けた
とのことで、このセザンヌの影響がわかる風景画。
明るく柔らかな色彩、私この風景画好きです。
《パリ遠望》1924年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
大きな転機が、6月30日に里見勝蔵に伴われてヴラマンクを訪ね、
自信作の《裸婦》を見せたところ、「このアカデミック!」と
痛罵されてしまったこと。
そこから、まずはヴラマンクに倣った
暗く重厚な筆致で郊外の風景を描きます。
《オワーズ河周辺風景》1924年 和歌山県立近代美術館
左《風景》1924年頃 大阪中之島美術館
右《風景》1924年 個人蔵
今年2月に行った
ヤマザキマザック美術館「パリに生きた画家たち」展
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-02-15
この頃の作品が、隣にヤマザキマザック美術館所蔵の
ヴラマンク作品と並べて展示されていて、
厚塗りの激しい筆致や斜めに歪んだ家々など、
とてもよく似ているなって見ました。
秋に再び里見勝蔵と共にヴラマンクを訪ねた佐伯は、
「物質感はナマクラだが、大変優れた色彩家」と褒められたと。
《オーヴェールの教会》1924年 鳥取県立博物館
ゴッホ終焉の地・オーヴェール=シュル=オワーズ
佐伯はヴラマンクとの衝撃的な出会いの翌日に、
ゴッホ兄弟の墓を詣で、ガシェ博士の所蔵する20点余りの
ゴッホ作品を見学した。
この作品は、オーヴェールを再訪した際に制作されたもの。
ゴッホも描いた教会をほぼ同じアングル、構図で描いている
とのことだけど、印象は、同じ教会? って思うほど違ってます。
《煙突のある風景》1924年頃 個人蔵
絵が掛けられている壁紙の色が少し濃くなってますね。
2-2 壁のパリ
1925年、佐伯は郊外のクラマールから
パリ15区の下町のアトリエに移り、
付近の通りに画架を立て、街の風景を描き始めます。
ヴラマンクの影響下にあった荒々しい郊外風景から、
ユトリロに影響を受けたパリの街並みへ、
そして、建物を正面からとらえ、時にはその壁のみで
構成された画面へ
同じ建物を正面から描いた絵が並んでます
左《レ・ジュ・ド・ノエル》1925年 和歌山県立近代美術館
右《レ・ジュ・ド・ノエル》1925年 大阪中之島美術館
左《コルドヌリ(靴屋)》1925年 石橋財団アーティゾン美術館
右《コルドヌリ(靴屋)》1925年 茨城県近代美術館
興味を抱いた対象に執着して何点も制作することは
佐伯の特徴の一つで、サロン・ドートンヌに出品して
ドイツの絵具屋に買い上げられた《コルドヌリ》も
これらに類似した作品だったろうと。
《パリの街角(家具付きホテル)》1925年 大阪中之島美術館寄託
《パリの街角》1925年 和歌山県立近代美術館
この建物は荻須高徳が好きそう、なんて見ました。
佐伯の後輩画家で、モラン写生旅行にも同行した荻須高徳
初期には佐伯と見分けがつかないような絵も描いていたけど、
次第にどっしりと落ち着いたパリの街の絵になっていきますね。
《壁》1925年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
壁に書かれた広告の文字に紛れるように、
署名と佐伯作品には珍しく完成した日付(1925年10月5日)が
記されています。
左《広告のある門》1925年 和歌山県立近代美術館
右《門と広告》1925年 埼玉県立近代美術館
1926年1月14日、健康状態について心配する家族の説得を受け、
佐伯一家は日本に帰国するため、パリを離れます。
もう一度パリを描いきたいと、シベリア鉄道でパリに到着したのが、
1927年8月21日
2-3 線のパリ
解説パネルには、洒落たランプもついてます!
2回目のバリの作品の壁紙は鮮やかなローズ色ですね
《オブセルヴァトワール附近》1927年 和歌山県立近代美術館
佐伯一家と親しく交流したヴァイオリニスト・林龍作が住んでいた
部屋からの街を描いた作品。画面左下から右奥へと走るのが
モンパルナス大通りで、佐伯のアトリエは左から7番目の建物に
あったとのこと。
佐伯祐三といえば想起される、画面を跳躍する線描
ポスターの文字が軽やかに描かれてます。
《オブセルヴァトワール附近》1927年 大阪中之島美術館
《街角の広告》1927年 大阪中之島美術館
《新聞屋》1927年 朝日新聞東京本社
新聞はこんなふうに売られてたのかー。
新聞の文字が躍ってます。
《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》1927年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
広告の文字だけでなく、テーブルや椅子の線、
署名の文字も画面上で踊っているみたい。
《テラスの広告》1927年 石橋財団アーティゾン美術館
《広告貼り》1927年 石橋財団アーティゾン美術館
《共同便所》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
ポスターの文字がリズミカルな佐伯らしい絵だけど、
この建物「エスカルゴ」とも呼ばれたパリの公衆便所なんですって?!
佐伯にしては珍しい? 人物画
《靴屋》1927年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
1928年、肺の病が進行して身体の衰弱は進むが、
制作ペースは加速して、
2月にヴィリエ=シュル=モランへ発つ前のパリで
工場を題材とする3点をわずか2日で仕上げている
《工場》1928年 田辺市立美術館(脇村義太郎コレクション)
《白い道》1928年 島川美術館
パリの街のような広告がないので、それまでと
ちょっと違う印象だけど、堂々としていいなって。
第3章――ヴィリエ=シュル=モラン
壁紙の色が深い緑に変わります。
吊り下げられた幕の写真はモランの寺の前の佐伯?
パリから電車で1時間ほどの小さな村
ヴィリエ=シュル=モラン
《モランの寺》1928年 大阪中之島美術館
《モランの寺》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
モランの中心に位置するこのサン=レミ教会を、
佐伯は異なる構図で15点制作しているとのこと(一部は焼失)
ヤマザキマザック美術館「パリに生きた画家たち」展
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2023-02-15
にも、《モランの寺院》が展示されてて、
とても素敵だって見ました。
左から、
《モランの寺》1928年 東京国立近代美術館
《モランの寺》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《モランの寺》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《モラン風景》1928年 和歌山県立近代美術館 と、
モランでの写真
股の間から顔をのぞかせるのが佐伯、その右に
荻須高徳、山口長男、横手貞美
モラン写生旅行に同行したのは後輩画家の
荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美に米子と彌智子
楽しそうな佐伯の様子だけど、
創作態度は厳しく、午前に1枚、午後に1枚と自らに課し、
思う結果が得られなかった日にはさらに
夕方に描きに出ることもあったと。
厳しい寒さの中で自らを追い込むような制作は、
確実に体力を奪っていきます。
《納屋》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《モラン風景》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《煉瓦焼》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
昨年放送された「日曜美術館」で、山本發次郎氏は、
佐伯祐三の《煉瓦焼》と出会って
「胸に動悸打つ異様な感じ」と、衝撃を受け、
佐伯の絵を収集するようになったって知りましたが、
それが納得できる、なんかすごい迫力の絵です。
入口をくぐって入った部屋のようになった最後の展示室、
壁紙の色も渋いベージュ色
エピローグ――人物と扉
佐伯祐三の絶筆に近い作品が展示されています。
1928年3月、小雨の中での制作がもとで風邪をこじらせ、
体調がすぐれない日々を過ごしていた佐伯は、偶然に
自宅を訪れた郵便配達夫に創作意欲をかきたてられ、
絵のモデルを依頼します。後日、自宅を訪れた
郵便配達夫を前にして、その日のうちに、
グワッシュ1点(戦火により焼失)、
《郵便配達夫(半身)》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
そして《郵便配達夫》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
を描きます。
佐伯祐三の代表作ともいえる絵ですね。
切手にもなってたなー。
創作意欲をかきたてられたのは、
ゴッホの「郵便配達人」のイメージがあったからかな?
そして、モデルに使わないかと扉をたたいた
ロシアの亡命貴族の娘を描いた
《ロシアの少女》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
わずかに体力が回復した時に戸外へ出て描かれた2つの扉の絵
《黄色いレストラン》1928年 大阪中之島美術館(山本清雄氏寄贈)
《扉》1928年 田辺市立美術館(脇村義太郎コレクション)
病床の佐伯が、この2枚は僕の最高に自信のある作品なので
売らないようにと頼んだそう。
3月末に喀血して病臥し、それ以降、再び筆を持つことはかなわず、
病状の悪化とともに精神状態も不安定となり、
パリ郊外のヴィル・エヴラール精神病院に入院、
8月16日に亡くなります。
30歳の短い生涯、本格的に画業に取り組んだのは
わずか4年余りという、
その短い期間で、まぁ、よくこれだけの作品を! って
驚いた展覧会でした。これでも「日曜美術館」によると、
戦災で佐伯作品の3分の2が焼失してしまったとか‥‥
そして、これだけの作品が一堂に集められているのも感動です。
これは、コレクターの山本發次郎氏のおかげ
って言ってもいいかもしれませんね。
日曜美術館のタイトルでもある
「大阪中之島美術館~蒐(しゅう)集もまた創作なり~」
出口のところに、1937年に開催された
「山本發次郎氏所蔵 佐伯祐三遺作展覧会」の
ポスターが展示されていました。
山本發次郎氏所蔵の108点が展示されたそう。
展示台には展覧会にあわせて出版した
「山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三画集」
開かれたページに載っているのは、
戦災で焼失したグワッシュで描かれた郵便配達夫の絵だそう。
戦火をまぬがれた佐伯作品のうち33点が、
1983年、遺族により大阪市に寄贈されたことが
大阪中之島美術館設立のスタートとなったんですね。
「山本清雄氏寄贈」って記されている作品、
さすが、名品揃いだなーって見ました。
ショップで図録 2,800円(税込)と、
《郵便配達夫》と《煉瓦焼》の絵を缶に使った
ミニゴーフルのセット 1,188円(税込) を買いました。
4階の展覧会
「デザインに恋したアート♡アートに嫉妬したデザイン」
のことは、次の記事で――
大阪中之島美術館: https://nakka-art.jp/
「佐伯祐三」展特設サイト: https://saeki2023.jp/
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